昭和41年07月29日 夜の御理解
今朝から頂きます御理解に、御粗末と言う事について頂きましたですね。ご粗末ご無礼と言う事を申しますですね。ね、ただそれを続けてから、お粗末ご無礼をお許し下さいとこう言う。本当にそこんところの掘り下げ方が出来ていないと思う。そこでまぁ私共がお粗末ばかり、ご無礼ばかりしておるわけになるわけです。そこんところを今日はこのお粗末と言う事に対して、その焦点を置いての御理解でございました。
その御理解を頂き終わってからです、ある方がまあ名前をまあはばかりますけれども、先生、実はと言うて、まあ本当に、私も初めて聞かせて頂いたことでございましたけれども。先生、実はこう言う様なお粗末ご無礼を致しておりますが、こげんとが一番お粗末な事でございましょうか、とって言う事でございますからね。そん時私、ほんなこって皆大体聞こえんですかっちゅうごたる大きな声でですね、「それがご無礼」と頂きました。もうそれも厳しいことでした。
それがご無礼と、もうご無礼というのは、お粗末ぐらいなこっちゃなか。してみるところお互いですね、神様から本当にまあ私なら形の上でもないようなだけで、まぁだ大体一体のような感じがするんですよ。しかし神様からご覧になるとそうなんですね。本当によくよく考えなきゃいけないということですたい。先日は総代会がありましてね、遅くまで御造営のことについて教義、懇談がございました。高芝さんは初めにここにあの、お届けがあったんですよ。
本当皆さんご苦労さん、普通人間的に言うならご苦労さんですよね。そして話も非常にスムーズにできて、まあそんなら経理の方、いやあ企画の方でそういうふうな企画を立てておるのならば、それに総代も同調させて頂こうと、信者一同も呼吸を合わせて頂こうと言う様な事に話が決まりましたから、まぁ本当にスムーズな有り難い、言うならその、まぁよい会合があったわけなんです、ね。
ところがです、ある方が明くる朝、お知らせに頂いておられますように、丁度その総代さん方がこうやってお届けした、その時のそれを見ておられる訳じゃないです。高芝さんを先頭に、総代さん方がずらっと並んで、お届けがあっておる。そのお知らせを頂いておられる。そしたらですね、あちらのお御簾が、さらさらっと下がってしもうたところを頂いた。これはどう言う様な事だろうかと。
総代さん方としては、本当に総代としての役前のための、いろんな時間を割いての会議があったり、その事を又信心で自分たちは解決し、懇談したつもりであったのだけれども、その内容の内容をしたのじゃなかろうかと思うですたいね。これはそん時、まぁ総代さん方でなからなければ、実は分からんのでございますけれども、各々がもう一歩自分のそのあの話し合いをしたことの中に、もう一歩、突き進めたものが、なからなければいけなかったのじゃなかろうかと、ね。
いわゆるシャットアウトと言う様な感じですもんね。折角のその、今言う様なお届けがです。私もそれ聞かせて頂きましてから、本当に神様は厳しいなあと、しかし厳しいと言うてからそれを厳しゅうにも、教えてもらわなければ、私共は分からんのですからね。私共が祈り願っておると言う様な事がですたい。本当に私は神様から御簾をさらさらと、それこそ御簾を奉れと仰るのに。反対に御簾が下がって仕舞う様な事では、おかげにはならんということです、御簾を奉れと。
お道を汚す、信心を汚す、心配をさすと、ははぁこの三つの事をすると成程、その内容にぴたっと来るものがあるような気がするんですよ、ね。お道を汚す、各々がです、本当にそのお道を汚しておらんか、いつも反省せにゃいかん、ね。信心を汚す、いつも自分の信心を頂いておる、その心から汚してならない心を汚す。ために人に心配をかける。あげなことでよかじゃろうかと、言うて心配をかけるわけなんです。この三つの「す」が奉られた時に初めて御簾を奉るということです。
三つの「す}を奉る。ほんにあの( ? )ぎれでもやはり、( ? )だったと。信心の稽古をさして頂くならです、やはり本当な事を教えて貰わなければなりませんからね、うん。本当のことを教えて下さるということはやはり、ある意味では分からんから教えて下さるのですから、私共にはそれが厳しく聞こえた、厳しく響いてくるわけなんです、ね。私はその方のお取次ぎさして頂いてから、あら本当その事がご無礼なら本当に、はぁこの方ご無礼が、いっちょんおかげは頂くまいと、私は思いましたですね。
もう本当、内容が申し上げられない、もう本当にまぁいろいろ、皆さんにもびしびしくる事があるじゃろうと思うんですけどもね。内容が内容ですから申されませんけれども、そのことはご無礼と、神様が。お粗末ご無礼。今日の御理解はお粗末ということであった。そして、もう本当にもう(ゆのぐのつぎ?)んごたったですけれどもですね。またんなら氏子が今願っております、お粗末と言う事についてどうぞ説いてある。また今朝の御理解のその、いわゆる内容ですたいね。
ならどう言う様な事がお粗末なのじゃろうかと思うて、神様にお願いさして頂いたら、イセエビのですね、頭のないイセエビを頂くんです、御心眼に。イセエビというのは修行と仰るですもんね。言うなら日々、刻々、様々な修行が私共のならこのお天気でこの暑い、汗ぶるぶるかいておると言った様な何かこれ、よか修行をさして頂いとるとですよ。まぁそれやっぱ、ああ暑か暑かっち言うちから、んなら不平不足を言うなら、これはやっぱ修行にはなりよらんです、ね。しかも天地自然がですね、この暑さがなからなければ立ち行かないことがある。
この寒さがなからなければ、その暑さ寒さに私共不平を言うと言った様な事は、やはりこれは本当に大自然が、私共に求め給うその修行をです、元気な心で私は今日、本当にいつもなんですけれどもね、うちの会合が一番時間励行で、見事な会が出来よるならです、竹葉会じゃない、敬親会です。もうそれがもう皆ですね、ならおばあさんたちの何かそのお茶の場、集まりに楽しいというのじゃなくてですね、しら真剣に信心を語られるんです、おばあさんたちが。そしてやはりおかげを受けておられるんです。
そして楽しいらしいんです。今日なんか最後に、佐田さんが阿蘇山のこの頃、登山した時の話をしよんなさったからでしたが。本当にいっちょ敬親会がどげんか一遍、富士登山ばいっちょ( ? )じゃろうかと言うて、まぁその冗談ですけれども、そういう元気が私それを聞いてですね。ものその元気ですよと。もう椛目にまだ元気がないと言って、あれだけ富士登山なっと思い立ったら、皆がじゃついてくるか知りなさらんわと、いうてから言うたことでした、ね。
もう60から、65から以上のお年寄りの方たちがです、今日は11人集まっておられました。すでに10人もおる、ね。その人達がです、富士登山でもしようかっちゅうごたる言わば元気な心なんです、ね。北川さんなんかは、もう朝の御祈念の後からずうっと一日中(?)られました。それであの一番暑い最中にですね、みんな時間、本当に時間励行で集まられるんですね。これには本当に関心致します。本当に初めの間は嫁の悪口で、もうわんわん泣いてから嫁の悪口であったり、養子の悪口じゃった。
さぁそれを、この頃ではもう本当におかげ頂いてから、嫁じゃなかですもんねと、養子じゃなかですもんねと、本当親先生言いなさるごと、もうこっちが改まらです、こげん仲良う受けれれるとがと、言う様な話なんです。それはもうおばさんたちのことですから、もうそのことにかかっておられますから、ね。私共はまあ例えば生活していくということだけにでも、まぁ一生懸命になりますからついつい、汚しちゃならない心でも、まぁ汚すわけですけれども、ね。
私、今朝の御理解から頂きましてですたい、ね、本当に、まぁお粗末ご無礼ということは、またご無礼ということは、まぁおって頂くといたしましてですたい、ね。本当にお粗末があったんじゃおかげは頂かれんと。だからもうお粗末にならんようにということはです、ね、今朝からも私が申しますように、私の家内がお知らせに頂いておるように、しょう油ひとつ使わせて頂くでも、薬でも使うごたる気持ちで使えと。
これは使い過ぎたら、毒になるちゅうごたる気持ちで使いよる。こういう気持ちならです、決してお粗末にはならんです。じゃぼっとかけといてから、ああ辛しすぎた、ね。これなんかは水頂かにゃん、そして腹が痛かちゅうて、もういよいよお粗末ご無礼です。もうよかよか猫か何かにやるけん。いや豚にか何かやるけんで。もうまるきり本当にそう言う様な事ではですね、おかげにはならんと。
豚には豚、にわとりにはにわとりのえさが、ちゃんと与えてあるのですから、人間様が頂かれるものをです、わざわざ豚にやらんでもいいのです、ね。そう言う様な、これはもう食べ物だけのじゃございませんけれどもです、そういう心がけでお粗末ということに取り組んだら、おかげになるということ。それに取り組まんからでけんのです。その気にならんから出来んのです、ね。
しょう油ひとつ使うでもお薬使うごたる気持ち、いやもういっちょ使いすぎたら毒になるというぐらいな気持ち。また使い過ぎたらご無礼になるです、本当に、ね。そういう言わば細心の心がけがあって、信心もまた楽しゅう有り難い体験がひしひしと頂けてくるんじゃないだろうかと私は思うのです、ね。
同時に一番のお粗末は、ね、今日、私が頂きましたようにです、この方のために。イセエビの頭のないようなものだと、ね。自然が求め給うところの修行をです、私共がそれをよう受けん、ね。神様が求めてござるという修行をです、私共が向こうに押しやろうとする、ね。心を乱す、ね。そのことはいかにもその、自分がちょっと分が悪いと思うたら、もう向こうへ押し返そうとする。そこを一応は合掌、これはどういう御神意のことであろうかというような頂き方、ね。
神様が求め給うと言う事は自然が求め給う、自然に起きて来るその事柄をです、ね、大事に頂いて行くと言う事がイセエビのような修行になるのであって、折角のそういう修行ならせなならんです、せにゃならんとでしょうどうせが、ね。もうせにゃならんものならです、そう言う様な考え方で、どうしてこげなことが受けられようか、ちゅうごたる受け方をするとです、丁度イセエビの頭を取った様なものですから、どうでしょうかイセエビの頭をとってしもうたら、ね。
それこそもうイセエビとしての値打ちがないです、あれ。修行さして頂きよる、苦労さして頂きよるのだから、その苦労を修行にせにゃいかんて、ね。そういう頂き方こそが、完全なイセエビのおかげを頂くのであるから、イセエビの修行としての、神様はおかげを下さるのです。それを頭だけは摘み切った様な修行だから、いや値打ちのないエビ、値打ちのない修行と言う事になるのじゃないでしょうか、ね。
例えば私共がですよ、朝の御祈念なら朝の御祈念をです、ね、奉仕さして頂くのに、本当に一秒間だってきらさんとこう、なら私がその修行をさして頂くといたしましょう。それで、5分をかけ10分をかけしてごらんなさい。大したことないでしょう、たった5分か10分かのことでしょうが。それでももう値打ちはないです。修行せんなら修行はやっぱ修行なんだけれど。もうそれじゃ値打ちがない。たった1分か2分間のことでです。例えてから時間的なことだけじゃございませんけれどもです、たったそれだけで値打ちのない修行にしてしまっておるようなことはないだろうか。
それでは勿体無い。折角今日一日この暑いなかに修行さして頂いたのであるから、ね、本当に値打ちのある修行をさして頂いて、あのことも有り難いと受けさして貰いました。このこともそれこそ、富士登山でもするごたるお年寄りがですよ、みんな元気な心で受けさして貰いましたと、ね。それでこそ私は初めて値打ちのある、きついもう本当に苦しい一日でありましたけれども、結構な言わば修行さして頂いて有り難しというところにです、値打ちのある修行ということになるのじゃないだろうか。
値打ちのある修行をさして頂けれるのに、値打ちのない修行としてしまう事こそが、これが一番のお粗末であること言う事なんだ、ね。口だけじゃいけません。お粗末ご無礼お許し下さいだけじゃいけません、けれどもね、それは生身の事ではあるし、人間の事ですから、どこにお粗末がご無礼があるやら分からんと、そこの所を平仁平にお許し下され、見直し聞きなおしして下されというて願うのでございますけれども、それとてもです、お粗末ご無礼のことをです。本当にお許し下されというて願うならばです、ね。
そのお許しを頂かして頂けるお詫びの印に、やはり大祓い一巻なっても上げる位な気持ちを持ちなさいって、私は言うわけなんです、まぁそれは大祓に限った事じゃないけれども、本当に今日一日の知らず知らずのお粗末ご無礼のために、自分だけじゃない、家族中の者が出した、おる所のお粗末ご無礼のお詫びの印にです、ね、この事だけは慎まして貰う、この事だけは修行さして頂くと言った様な、私はそういう姿勢、ね。が、信心にはどうでも必要なことではなかろうかと私は思うのですね。
どうぞ。